9マイルは遠いんだから

なんかの感想

1/6のsolanum またはOuter Wilds感想

 

すごいゲームだった……


私が人生でやってきたゲームの中で殿堂入りはシレン2とトルネコ3と逆転裁判3なんだけど、今後はここにOuter Wildsが入る


一つの世界がたしかにそこにあって、私は主人公の四つ目を通してそれを眺めた。最高の体験だった。

 

 

あらすじ

四つ目星人の宇宙飛行士である主人公は、古代にこの恒星系に住んでいた三つ目星人の言語翻訳ソフトを携えて宇宙を旅する。しかしこの恒星系は恒星の超新星爆発によって滅ぶ運命にあった。
哀れ主人公は宇宙の藻屑に……となるところだが、しかし謎の力で22分前にループすることになる。

こうして主人公はループを繰り返しながら、宇宙を旅するのであった!

 

 

あらすじの通りこのゲームは22分を繰り返しながら宇宙を探索するゲームなのだが、何をすればいいのかが全く漠然としている。
最初にしつこいほどに仲間の四つ目星人たちから「宇宙で何するの?」って聞かれるけど、始めたばかりでそんなこと知るわけないじゃん。
でも、ループを繰り返し、各惑星や衛星で気ままに過ごす先輩宇宙飛行士と出会って歓談したり、三つ目星人の残した石碑を解読していくうちに、今度はこの星に行って調べてみよう……となんとなくやりたいことが見つかっていく。
三つ目星人が到達したいと願う、宇宙そのものを観測する「宇宙の眼」への到達である。
三つ目星人はそこへ辿り着く前に絶滅してしまったけど、多分主人公がそこに到達することが目標なんだろう!と考えて、とりあえずやってみる。

主人公=プレイヤーになるゲームとして最高峰だと思うのが、このとりあえずやってみようという動機が自然発生するところだよね。
オープンワールド通り越してオープンユニバースゲームとしてワクワクドキドキを提供してくれる。グッド。

 

 

 

 

いや、こういう紹介をしたいんじゃないんだ。

 

 

 

 

たかが感想、たかが紹介なんてありふれている。

私がここで吐き出したいのは古代三つ目人の生き残り(?)である彼女、Solanumのことだけだ。
日本語版をプレイしたが、このゲームは名称だけ英語を採用しているため、それに則ってSolanumと表記する。
Solanumとはつまりナスのことである(古代人は多分野菜の名前から名付けている)が、ここではナスちゃんとは呼ばない。
ナスと表記するとどうしても実のイメージが先立ってしまって、白い花の可憐なイメージに繋がらないからである。

 


まず、outer wilds世界では量子的ふるまいをする衛星が存在する。
それは量子の月と呼ばれている。ムジュラっぽいならばこの月がラストダンジョンなのか?と思ったが違った。

ここでの量子的ふるまいとは、位置の不確定性と、観察による状態の固定を意味している……と私は認識している。

5+1(通常の手段で降り立つことのできる惑星と、宇宙の眼)の星の全ての衛星である可能性がそれぞれ存在し、プレイヤーが衛星を認識したときに初めて惑星Aの衛星という結果に収束する。ということであってるのかな。

つまり、プレイヤーが見ているときには惑星Aの衛星でも、目を離す=観察をやめると惑星Bの衛星へと状態が変わるということである。

 

主人公は量子の月へ、観測をカメラで固定化するこてで降り立つことができる。
そこに建てられている量子的神殿を密閉し、月から見える風景の観察を一旦止めることで月は別の状態へと移行する。量子的風景を楽しみながら探索していくと、ふと、誰かが倒れているのを発見する。

 

古代人の死体である。

宇宙服に包まれた古代人が死んでいる。

 

古代人の多くがそうであったように、幽霊物質の拡散によって死に絶えたのだろう。
主人公は古代人に対して何もできない。古代人は何も書き残していないから、翻訳もできない。ただ、それを素通りして量子神殿へと入るしかない。

宇宙の眼の衛星状態に変化させて、神殿から出ることで、主人公は他のどれとも違う状態の衛星を探索する。ふと、目の前に誰かが立っているのをみつける。

そこには生きている古代人がいる。

彼女こそがSolanumであり、そして生きている確率を持つ最後の古代人である。

 

つまり彼女が量子の月にいるときに宇宙全体へ絶滅を引き起こす物質が放射線を出し、重なり合った6つの状態のうち5つの状態の衛星が被爆したのだ。
その結果、量子の月にいた彼女もまた被爆して死んだ彼女と、ずっと遠くにある宇宙の眼状態にいて生き延びた彼女が重複することになる。
したがって、観測者である主人公が5つの状態の衛星を観測しているときには彼女は死んでおり、宇宙の眼状態を観測しているときには生きていられるということになる。

 

古代人である彼女と主人公は直接会話することができない。
古代人が石板に文字を書き、それを読み取るだけの一方的なコミュニケーションだ。
それだけだが、彼女の知的な人柄とこちらを気遣う優しさ、そして圧倒的な諦めだけは伝わってくる。

 

「たぶん、私の旅は終わったんだと思う」

 

と、彼女は言う。

私はここで泣いてしまった。
宇宙船の操作もおぼつかないまま宇宙に出た主人公は、言わば最も新しい旅人だ。そしてSolanumはこの宇宙で最も古い旅人である。
そんな彼女の穏やかな諦めを前にして、彼女の手を引いて、たとえ22分の宇宙だとしても今の宇宙をもう一度旅をしようと言いたかった。


けど、主人公はそれをしない。伝えられない。

 

もしかしたら、きっとSolanumは何度も神殿を利用して帰ろうとしたのかもしれない。


わからない。

 

1/6の状態でしかないけど、それでもSolanumに出会えてよかった。

 

「私があなたのことを友達だと思っても、気を悪くしないでほしい」

 

そう彼女は言う。この広いんだか狭いんだかわからない世界で出会ったらもう友達だと答えたい。

 

一方通行の言葉で伝えてくれた彼女に主人公がどう答えるのかはEDにある。
宇宙の眼に到達した主人公は彼女を自分たちのセッションに加える。鼻歌とバンジョーとハーモニカとドラムとオーボエの曲に、彼女のピアノが重なる。

音を合わせるのは心を合わせるのだと、小学校の音楽教師が言っていたことを聞き流していたけど、だいたいにしてその通りなのかもしれない。

この宇宙に散らばる旅人たちの心は新しい宇宙への期待で沸き立って、それで……

 

 

恥ずかしながら私は超新星爆発は古代人の生き残りによって引き起こされた人災であると思っていた。
それこそムジュラの仮面のように、天災を起こそうとする相手がいるものだと思っていた。
でも本当のところは全然違って、ただ好奇心と高い倫理観、使命感を持つ知性存在がいただけだった。

 


この宇宙のずっと向こう、オールトの雲だとか、事象の地平面だとかの向こうにはきっと別の宇宙がある。知性存在が構築する文明がある。
もしかしたらそれは恒星が3個だか4個だとかある世界かもしれないし、音を食べる生物とか不思議な生物がいる世界かもしれない。
そういった想像力を掻き立てるこのゲームは、疑いようもなく最高のSFだった。

 

 

 

Outer Wilds ドキッとした瞬間リスト

・木の炉端の裏側にあるイバラの種子の内部から、行方不明の旅人の吹くハーモニカが聞こえる

・アンコウのあんちくしょう

超新星爆発は人為的に起こせなかったという事実

・ループから起きるたびに最初に目に入るロケットの射出角が毎回違うことに気がついた時

・アンコウのあんちくしょう

・砂時計のサボテン(どうしてそんなところにあるの?)

 

 

 

 

ひかりのめいが、あるいは戦艦テメレール号について

 

あつまれどうぶつの森で絵画の収集ができるようになった。

二週間に一回ぐらいにやってくるつねきちという狐の商人から絵画を購入することができるのだが、このつねきちというのがなかなか阿漕な商人であり、偽物だろうと本物だろうと素知らぬ顔で売りつけ、そして返品は承っていない。一文無しで島に乗り込んだ住民に利息なし担保なしでベルを融資してくれる狸とは大違いである。


実際私も騙された。
牛乳をダボダボ注ぎまくってる女や八の字眉の歌舞伎者、インテリ系(だからといって大きいアレを隠したりはしていない) のダビデ像を偽物と暴き、これぞ本物と信じた『すごいめいが』ことレンブラントの『夜警』を購入したはいいものの、学芸員の梟に偽物ですよ!と注意されたのである。攻略サイト曰く、本物は真ん中の男性が帽子をかぶっているらしい。

なんと全部偽物というオチ。しかも偽物は狸の弟子たちが営んでいる店では買い取ってもらえないのである。こういうときに村時代に存在したメッセージボトルに詰めて流したりできないかなと思いつつゴミ箱に捨てた。


そんな生き馬の目を抜くかのようなつねきちとの騙し合いであるが、本物しかない名画というのも存在する。良心的なのかそうでないのかわからない狐である。
『ひかりのめいが』こと『解体されるために最後の停泊地へ曳かれていく戦艦テメレール号』(以下戦艦テメレール号と表記)はその一つである。
どう森の絵画のネーミングセンスというのは実に独特であり、『ゆうめいなめいが』なら世界一有名な『モナリザ』であるし、『もののふのちょうこく』ならば始皇帝を守る『兵馬俑』である。

『ひかりのめいが』という名前に違わずこの絵は光が印象的である。
これは1839年にロンドンの画家ターナーによって描かれた。
戦艦としての輝かしい役割を終え、黄金の光の中悠々と最後の停泊地へと曳かれてゆく船の姿を別の船からターナーが眺めて写しとった。という構図である。
実際にターナーが眺めたのか、それともイメージ絵なのかはわからない。だがそんなことはどうでもいい。
光に包まれて今にも空気に溶けそうな、しかし未だ圧倒的な存在を持ち続ける船。それは凱旋にも似ていて、それでいてどこか泣きそうな美しさを感じる。

 

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この美しさをどこかで感じたことがある。


そう考えて家にある美術図鑑やらを漁ってみた。ネットサーフィンもした。
そして出会ったのがクリムトの代表作『接吻』である。
崖の上の花畑で愛し合い、同化するように抱き合う男女の絵画がどうしてこんなにも心を打つのか。
それはきっと、彼らが動作で語る物語のせいなのだろう。
彼らは崖の上にいる。それがなぜかはわからない。
心中なのかもしれないし、ただの装飾なのかもしれない。
しかし、きっとこの二人は描かれた瞬間を最上のものとしているのは理解できる。きっとこの瞬間以上に幸せなものはないと心から確信していなければこの恍惚の表情はないだろう。


ひかりのめいがの話に戻す。
『戦艦テメレール号』に描かれている対象は二つだ。ひとつは戦艦、もうひとつは空から降り注ぐ、あるいは海に反射する光である。
描かれた対象が二つ以上であるならば、そこに動作または物語が生まれる。
テメレール号は光を眺めている。その眺めるという動作を我々は共有しているのである。
ではなぜ金色の空がなぜあんなにも美しいのか。テメレール号にとって、それは最後の光だからだ。
テメレール号の感じ取った光を、テメレール号を通して我々は感じている。

 

最後の魔法のおかげで世界はとても綺麗です

とは二階堂奥歯

これがかの戦艦にも当てはまらない道理はない。
戦艦テメレール号は、自分にとって明日が来ることを微塵も信じていない。
明日というのは"今までのどの瞬間よりも素晴らしい未来"のことと言い換えることもできる。
現在、または過去を越えるだろう瞬間が訪れる希望がなくなった時だけに見ることのできる景色があの光であり、その限られた瞬間を最後が訪れていない我々にも見せることができるから名画なのだろう。
それは接吻する男女も同じである。
剛健なテメレール号とエロティックな印象すら受ける接吻は真逆の絵画に思えるが、どちらも未来がないものを対象としているのは同じである。

 

未来のないものの見る光は美しい。
そういうわけで、私はひかりのめいがをフータに寄贈したのであった。

 

 

 

 

 

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未来を迎えないからこその美しさを語ったが、あつ森ではその夜明けこそが美しい。

明日を迎えるたびに、穏やかなBGMとともに白む空を眺めることができる。

 

the sexy brutale 感想考察(ネタバレありまくり)

PV見て10秒で購入決めたゲームは初めて。

ジャズ調のBGMが神懸かってるのに加えて、システムがとりわけ面白い。


とある公爵が運営するカジノ『the sexy brutale』において、舞踏会さながらに仮面を被ったゲストが使用人たちによって惨殺されていく。
主人公である老いた宣教師ラフカディオ・ブーンは時を遡る懐中時計を使って全滅するまでの12時間を繰り返し、ゲストたちが殺されないように動いていく。

 

屋敷にはいくつかのルールがあり、
①ゲストと使用人と直接会ってはいけない
②ゲストと使用人のスケジュールは変わらない
③時を遡るとセーブした時計へリスポーンする
が主なもの。
この①が曲者であり、ラフカディオはゲストや使用人のいる部屋に入ることはできない。入った瞬間仮面に追いかけられる。そのためゲストに向かって「殺されるぞ」と警告することができないのだ。
助けるためには②のルールを利用する。ループを繰り返して被害者と犯人を徹底的にストーカー。スケジュールと殺害方法を把握して、犯人の裏を描く形で殺害を阻止する。
ムジュラの仮面の世界観にゴーストトリックのパズル要素を合わせたようなゲームシステムだった。
途中主人公の脚が遅いのがやや気になるが、ラフカディオは老人なんです。許してやってください。

 


以下感想

 

○ミステリーについて
銃殺から屋敷の仕組みを使った遠隔殺人、果てには謎の怪物による呪殺まで……こんなのありかよ!って殺され方もある。
しかし世界観が「魔術とオカルト」なのでなんとなく受け入れられてくる。まあそもそも時間巻き戻しものだし。
このゲームをミステリーとして見たとき、事件単品は主役ではない。真骨頂は殺人事件の連動そのものである。
少し前に殺された死体を使って被害者を混乱させたり、銃声によって被害者が焦り始めたり、犯人が被害者の片付けに来れなかったり……
ビリヤードの球のように相互に影響を及ぼし合う複数の事件こそがこのゲームの面白さであると言える。

 


○BGMについて
ゲームにおける12時間は大体10分程。
BGMもフルで10分程。
おわかりいただけだだろうか。一日とBGMが連動しているのである。
館のどこかでガラスが割れる音や銃声、謎の停電によって電灯が瞬く音まで全てが計算済みであり、BGMの拍や転調に噛み合っている。
狂的なまでに時計仕掛けなジャズは聞いていて飽きが来ず、リスポーン地点である柱時計の前で一日寝っ転がって聞いていたことがあるくらいだ。
全員が死んだ11時〜ループする12時までの曲調がとりわけ味があり、カジノだったら「またお越しください」と嘲笑われるかのようなピアノ、劇場だったら被害者の死体をショーに見立てたかのようなファンファーレが鳴り響くなど悪趣味に塗れている(褒め言葉)。

 


○キャラクターについて
執拗にストーキングをしているからか愛着が湧く。
独り言からどんな思惑でどんな行動をしているかが理解でき、それが生存への助けになることもある。

特に二面であるところのカジノで死ぬ予定の恋人同士の関係が素敵。
カジノでディーラーロボット相手に負け続けているクレイに怪物蜘蛛に襲われるトリニティーの姿を届けることができさえすれば、クレイは彼女を助けに行くことができ、毒の入った酒を飲まずに済む。
その助けに行く際にカジノのディーラーロボットが「なんという幸運でしょう」と言うのにニヤリとした。

犯人である使用人たちも個性が豊か。
音楽を愛するものであったり、言動が奇矯であったり。舞台の黒子のような存在でもあり、ある意味で主役でもある彼らはどこか親しみがある。
トランプマークの描かれた髑髏の仮面というのも良い。統一感がありながらマークによって個性を出している。
BGM11時〜12時のピアノパートはもしかしたら彼らの独擅場の意味合いも兼ねているのかもしれない。

 

 


以下ネタバレ感想考察

 

 

 

 

 

○世界観感想
ゴールデンスカル仮面(ルーカスの罪の意識)と血塗れの少女(ルーカスの贖罪意識)による幻想世界上での対戦がこのゲームである。
黄金髑髏の心臓たるトリック、つまり全滅の真相が時限爆弾であるのも、うみねこを思い起こさせた。
この館には殺人者はいません」って赤字で言いたい(この「殺人者」とは殺そうとして殺す犯人のことを指す)。

館の保険金目当てに主人であるルーカスは爆弾で館を吹き飛ばすことを計画していた。ゲストたちと最愛の妻を館の暖炉から全員避難させ、誰も死なずに館の保険金だけを得ることができる完璧なトリックであるはずだった。
しかし時限爆弾は予定より早く爆発、ゲストたちと妻は全員焼死した。
ただ一人、ルーカスだけは時計塔の上から身投げしたことで皮肉にも命を取り留める。
The sexy brutaleは生存してしまったルーカスの幻想世界であり、そこでルーカスは親愛なる友人たちの死の想起を繰り返している。

いつしかルーカスは繰り返される悪夢の中で、自分の過失、爆弾によって殺してしまったという事実から目を背けるために、「ゲストは使用人たちによって殺されていた」という三文ミステリ小説のような妄想をし始める。
爆弾という真実を隠すための仮面を纏い始めた。この自己欺瞞の象徴がおそらく黄金髑髏。
殺したのは自分じゃないという悲痛な願望であり、それを俯瞰する皮肉さを併せ持っている。

自分が殺したという事実からは目を背けることができたが、それでもゲストたちが殺されるのを悪夢として見ているのは辛くて堪らない。
また、こんな悪夢に苛まれている自分を妻はどう思うだろうか。きっと永遠に苦しむのを望まないだろう、彼女はルーカスを愛している。そんなことは理解している……愛と絶望から生まれたのが妻の形をした血塗れの少女である。
血塗れの少女の導きによって、ルーカスは自分の親友であり尊敬していた宣教師、ラフカディオをアバターとして幻想世界を歩き始める。
いつかこうなりたかった自分であるラフカディオに友人たちを救わせることによって、幻想世界においてヒーローになった。真実から目を背け、どんな形であれ苦しみから解放される筈であった……

それでもルーカスにとって館を出る=夢から覚める結末は良いものであったと考える。
救いではない。ただの自己満足に過ぎないが、かつての妻はそれを肯定するだろうと。
ルーカスが自分の罪を受け入れるためだけの、酷く迂遠な物語であった。
EDのオペラがなんとも言えない余韻を残していて、どこまでもルーカスの一人芝居でしかなかったという寂しい結末に花を添えている。

 

 

○仮面考察
仮面は役割の象徴であると言える。
ゲストたちはみな「殺される」という役割を持つ舞台役者であり、その筋書きから外れることで仮面を外して素顔を見せる。
また、罪悪感を抱えた現実ルーカスにとって自分が殺してしまったゲストたちの顔は幻想の中であっても申し訳なさで直視できない。仮面はそれを隠すための防衛機構とも言えるのではないか。手癖の悪いことを暗喩する錠前の仮面、友人を諫めることのない妄信ぶりを皮肉った闘牛の仮面のように、ゲストたちの悪徳を揶揄した仮面を通さないと見ることすらできないのかもそれない。
そして使用人が仮面をつけているのは「自分ではない誰か」であるから。
皮の上に被さるのが仮面ならば、筋肉が剥き出しになったおぞましい様の血塗れの少女は、ルーカスが最も直視できないものであり、それでいて嘘で覆い尽くしたくない程愛している存在であるのだろう。
そして最後の豪奢な仮面をつけたラフカディオは「救う」役割である。

 

 

○現実ラフカディオ=ルーカスなのか?

正直この議論がしたくてブログを書いた。
幻想ラフカディオに館と爆弾についての朧げな記憶があるのは幻想ラフカディオ=ルーカスのアバターであるから。
ならば現実世界のゲストの一人であった筈の宣教師は誰なのか。

現実世界の追体験において、「ルーカスが誰も殺さない爆弾の証人として選んだ筈の人間は12人」である。ここ赤字ね。

レジナルド、クレイ、トリニティーウィローテキーラ、グレイソン、レッド、オーラム、サーノスで9人。

エレノアとお腹の中の子供を入れて11人。

「ルーカスの無実を証明する証人」はルーカス自身を指すことはないため、「ラフカディオという宣教師は現実世界に存在する」ここも赤字。

使用人については無視する。ルーカス視点において使用人の存在は特に気にかけるものではないだろうから。

自明だが改めて確認をしておきたかった。うみねこ式に赤字使用したい。

 

さて、幻想ラフカディオの手形画面の下は老いたルーカスであった。しかし現実のラフカディオの顔は?

 

① 現実ラフカディオ=タイムスリップした公爵
繰り返すループから抜け出し、歳を重ねたルーカス(つまりエンディング後)が過去へタイムスリップして再び公爵の館へ赴く。
それなら爆弾の不具合という事実を知っているし、止めた筈なのでは?と思ってしまう。老いによって記憶が磨耗したと言われればそれまでだが。
陰謀も殺人も魔法も存在せず、ただ過失による事故死であるというのが現実世界の非情な真実であるが、ラフカディオ=ルーカスの存在だけは本物の魔法だったという考えは非常に夢がある。


② 現実ラフカディオ=公爵ではない
元ギャンブラーで老いた宣教師。公爵の友人である。それだけ。
おそらくイニシャルが同じということで話し始め、仲良くなったのだろう。ルーカスの現在と似た過去を持つラフカディオは、ルーカスにとって憧れであった。
現実ラフカディオはおそらく礼拝堂の一部屋で焼け死ぬことになっている。幻想世界においてもおそらく使用人によって人知れず殺されていただろう。
しかし、血塗れ(=ルーカスの救済されたい心)に幻想世界内のアバターとして選ばれる。
ルーカスは日頃から自分がラフカディオであったらという空想をしていた。その名残であるのかもしれない。
仮面は「殺される」という役割の象徴であり、現実ルーカスが「顔を見ることすらできない」ことの現れだと先に述べた。
現実ラフカディオの顔が出ないのは、ルーカスが幻想ラフカディオをあまりに自分と同一視しすぎて、もう素顔を思い出せないから。
余りにも身勝手な空想だけどこっちも好み。

 

①と②どっちが真実なのかはプレイヤーの解釈に任せられているようなのでわからない。

誰と誰が同一人物であるのか、が隠された謎となっているのもうみねこ感がある。

真相は藪の中だが、個人的には②のほうがルーカスにとって残酷な結末となるだろう。

 

 

長くなってしまったが、非常に良いゲームだった。

Steamで邦訳されているミステリー(3Dで視点酔いしないものに限る)は大体やってきたが、まだこんなに面白いものがあったのかという驚きがある。

また、購入を決めるまで誰かに勧められてネタバレをすることなくプレイできて良かった。

ムジュラの仮面うみねこゴーストトリックが好きなら買って損はない。

 

 

おまけ

○悪習の鍵エンドについて

こればかりはオマケ要素じゃないだろうか。

館を全て探索し尽くした果てのちょっとしたご褒美というか。

存在しない筈の部屋に繋がれた怪物にトランプを渡すと、玄関ホールに飛ばされる。ダンスホールへの扉を開けると、そこでは使用人たちの演奏に合わせてゲストたちが素顔のままで踊っている。

車椅子で器用に踊るサーノスに、調子の外れたダンスをするグレイソンとレッド、端で静かにリズムに乗るウィロー……そして、ホールの中心で踊るルーカスとエレノア。全員が幸福であり、満ち足りた結末だ。

しかし一人だけ仮面をつけたラフカディオは、ステンドグラスを割って外に出る。画面は白く染まってそのままエンディング。

夢のようなもしもイフの世界だった。

ダンスホールにおいてのレジナルドのセリフ「姪(エレノア)が幸せならそれでいい」がこの夢の全てを表しているように思えてならない。

 

 

 

 

 

新世界より 感想

新世界より 感想っていうか考えたことの記録。
アマプラで全話配信されてたので見てきました。
スクィーラが好きです。

 

 


⒈「想像力こそが全てを変える」という文言について


全てのディストピア小説は電気羊ならびに1984年の影響を受けている。というのが持論なんですけど、電気羊において人間の証明とされているのが共感力です。
こう語り始めると共感力=想像力と認識していると思われそうですが、想像力の中でも呪力に及ぼすための現実に認識する想像力と自分と違う立場、つまり早季たちがスクィーラの戦術を先読みしたようなものを推測力、相手がどう考えているかを類推する力を共感力と分類する。

今語りたいのは推測力と共感力について。

 

まず推測力。
早季が富子様に評価されてるのは、葦のように立ち上がる折れなさに加え、街のために何が最善か、自分の行動によって何が起こるかを論理によって組み立てられる推測力だと思う。
早季はまだ未熟で、悪鬼のトリックについても「何かがおかしい」という直感から組み立てていってるけど、それは早季の頭の中で無意識的に組み立てられたものが次第に浮かび上がっていくようなものじゃないか。
その思考力を支えるのが"現状に疑問を持てる"か否かということ。
スクィーラにとってはバケネズミは人間または女王に従うものという認識、早季だと子供がいなくなるという街の仕組み。これら一見完璧に構築されていると考えられるシステムへの穴を見つける、ある意味悪意とも言える力。
早季とスクィーラはこの力が非常に高く、何をしたら自分たちが身を守れるか/何をしたらより街に被害を与えられるかの想像が頭の中で既にできあがっていて、それを実行できる力がある。
つまりこの物語の対比構造である早季の直感とスクィーラの悪意は、コインの裏表のように見えて実は同じものである。ということ。

 

 

次に共感力について、これについては早季やスクィーラたちのような文面上のものではなく、我々読者が持ち得るものである。


愧死機構というのはおそらく「自分と同型の個体が苦しんでいる様子を見て自分の身にも苦しみが起こるかのように錯覚する機構」であると読み解いたんだけど、これはまさしく共感である。シンパシーとエンパシーの違いは実感が伴うかどうかであるけど、愧死機構は共感から実感を組み立てている。逆エンパシーである。
逆にバケネズミは、大義と集団心理というスキンでこの共感を覆っているから、自分と同型の個体が苦しんでいても痛みではなく怒りがまず来るのかもしれない。

 

話を戻して、読者の共感とは何か。
読者の共感とは結局は実感を伴わない感情移入である。だからこそ地の文があるわけだけど、『新世界より』では早季たち「完成された人間」か、スクィーラたち「人間の末路」、どちらに共感するかではなく、どちらにも共感できるように作られている。
ガワが人間である早季たちに感情移入するのは容易い。語り手も早季であるし、外見的にも読者と同じである。
また、スクィーラたちに感情移入するのも同様。早季たちが全人学級で街の外への恐怖を刷り込まれたように、私たち読者は小学校から社会の教科書なりで奴隷制度、徴兵制度を学ぶことで一方的な権力に服従することへの本質的な恐怖を刷り込まれている。もし自分も超能力者に支配され、バケネズミに貶められたらどうしようという恐怖がバケネズミに共感させる。


では早季たちは私たち読者視点においた悪であるのか?となるが、これも違う。
早季たちは基本的には善人である。これは不文律。神栖66番町は善人の町であり、悪意を持って何かしらをしようとする人は描写されている限り一切いない。貶めるという発想がそもそもないように作られている。
瞬も語っていたように、そのような無意識的な悪意は全て呪力が介する恐れがあるから外に向けられるのだ。

自分たち人間の範囲内において互いを傷つけることをせず、慈しみ合う善人である彼らを悪としてみることはできない。
バケネズミへの共感がもしかしたら起こりうるかもしれない支配への負の共感ならば、人間への共感は誰もが持つべき善性への共感といえるのかもしれない。

 

まとめると、
①早季たち人間への共感
②スクィーラたち人間への共感
③早希たち新種族への共感
の三段階を追って、『新世界より』へのメタ的共感=彼らの心情の想像が成立するのだろう。

 

以上、「想像力こそが全てを変える」における「想像力」というのは人間たちの持つ呪力、早季とスクィーラの持つ完璧なものへの悪意とも言える思考力、そして読者の感情移入のトリプルミーニングであるのではないか、ということ。

 

 

 

⒉スクィーラについて

 

かれの最後の叫びについてはもう誰もが考えたことだろうし、私はそれ以上を考えられないから省略。

ここではかれの主義と正義ではなく、かれの持つ負の感情について考える。

 

5話〜7話において、早季たちが仲間と合流した時がその時期内で一番彼の憎しみが膨れ上がった瞬間のように思えてならない。


思うに、かれの原動力は劣等感ではなく不公平感なのではないだろうか。
"呪力がないだけ"でなぜ自分たちバケネズミは社会性を持つという共通項を持つはずの人間に隷属しなければならないのかという疑問から始まり、それから現在の人間社会の支配的構造に気がつくのはかれにとって易しいことであるだろう。
自分たちバケネズミは情報統制に頼らずとも全員が群として社会の構築が可能だと知っているから不公平感が溜まるのだろうと。
かれからして見れば、早季たちは呪力を持つ代わりに「自ら無能でいること、価値判断基準を外部に委託することを選びとった愚か者」に思えたのかもしれない。
そんな相手にたとえ子供であるとしても媚びへつらわなければならないこと、見窄らしいと見なされることが許せなかったのではないかと思う。

それと同時に、再会時点ではスクィーラは少なくとも早季は呪力を使えないと悟っている。それを早めに確信を持てなかった自分への愚かさへの反省もありそう。


まとめると、早希たちの再会シーンでのスクィーラの心情は
①呪力をもつというだけで子供にすら馬鹿にされる身への不公平感
②もう少し早季たちを注視していればもっと有益な別の手が打てたという自信と自己嫌悪
そして、もしもあったら地獄だなと思うのが
③早季(=社会的強者)に「協力者」として見なされたことへの少しの嬉しさ


③をもしスクィーラが少しでも感じていたとしたら、早季たちが去ったあとにとてつもなくスクィーラは屈辱を感じると思う。

自分が憎むべき相手に認められることに安心してしまった。自分がこの世界における強者に従うことで幸福を得てしまった。

これは結局バケネズミのいる奴隷立場への恭順であり、かれにとってはとてつもなく認めたくない感情なのだろう。

 

 


⒊真理亜守ロボトミ問題

 

二人はスクィーラたちに捕まった後、ロボトミられて生産ラインになったが衰弱して死亡。という説を前提にしている。

つまり出産→捕虜ではなく捕虜→出産。

 

さて、真理亜と守のどっちが先に手術を受けたかについてだが、二人同時なんて失敗のリスクが高いことはスクィーラはしないだろう。かれが直接手術の監督をしているとすれば、日を開けて順番にするのが一番効率的だと考えるのが妥当。

描写されていない以上推測するしかできはいが、個人的には真理亜のほうが先にロボトミられた方がありえそうかなと。
一途に想いを寄せられてきた守に対して、真理亜はずっと憧れでいたかったのではないかと。だから出産個体である真理亜の前に守でリハーサルしとこ^^ってなるところを庇ったのだろう。

そもそも真理亜にとって何が一番嫌かって、自分自身が守を害してしまうことだと考えられる。自分だけは守の側にいて、街からも外敵からも守護者であることを自分に課していた真理亜が守を庇わない訳がないだろうし、バケネズミ側としても臆病な守よりも勇敢で意志の強い真理亜の方から無力化しておきたいと考えるだろう。
数時間後、本能のみで動くようなまさしく繁殖用の個体となった真理亜が。
守は自分の絶対的な守護者であった真理亜がいかに非人道的な手術をされたのかをきっとその思慮深さで悟ると思います。臆病というのは悪い出来事への想像力があることだとも言い換えられるし。

真理亜がロボトミられた後、守だけロボトミ失敗して正気を保って(保ってない)いたらそれはそれで彼も地獄だなと。
人一倍臆病で未熟な彼が敵地で孕み袋と成り果てた姉的存在とまったくストレスの緩和されないボノボこういを強要され、ひっそりと雪が消えるように死んでいく。詩的だ。姉への尊敬と一途な恋心、そして姉と秘密を共有していた友人たちへのほのかな嫉妬心を煮詰めた少年の絶望。

 


だいたいこんなことを考えながら見てました。

 

また、スクィーラ裁判の後に「悪意を他人に向ける」高揚が忘れられず、また「他人を同型と思わない」という愧死機構の抜け穴に気がついた人が悪鬼化するという後日談とかありそうだ。
朝比奈瞬くん❤️生き残って❤️

プロメア 感想

プロメア感想


ああああああああああ
うわーーーー!!!(1日で2回見ての過剰摂取)


グレンラガンキルラキルダリフラを2時間にまとめて大画面の爆音にしました!密度がすごい!
ありがとうありがとうありがとうございます多分明日あたり3回目行きます。
なんで自分初日に行かなかったんだろ……(キンプリスッスッス4章に5回行って金がなかったからです)

まず最初の10分、ガロとリオの初対面でのぶつかり合いで「これは凄まじい映画だ」と"直感"しました。そんでもってリオが街を強襲するシーンの美しさに圧倒されました。火災によって激しい喧騒にあるはずなのに不自然なほどに静まり返った夜のビル街に降り立つ龍。かっこよすぎやしませんか??
バーニッシュは三角の火花、レスキューサイドは四角の氷で攻撃エフェクト展開してるのが綺麗ですよね。
バトルシーンがどれをとっても非常に痛快でビビットでしたが、特に終盤のリオデガロンvsクレイザーXが印象的です。
ガロとリオの共闘であり、黒幕との第一戦であり……と因縁的なものもありますがまず色彩!
箱舟の中、人口の青空に覆われた街での市街戦ですよ。太陽の逆光がないことでビームなどの強い光のみに意識が集中できたのまさしく映像の妙です。
最後のキスですが、あれは人工呼吸に類する救助だと思ってるので個人的にはノーカウントで。でもお幸せにな!!

以下キャラ感想

ガロ

漢。

それ以上何を語るっていうのでしょうか?
近日の「俺なんかしちゃいました?」系の無自覚最強主人公や腹黒一途で世界のために一人を殺す系の辛い過去背負ったダークヒーローに食傷してたころに彼のようなまさしく熱血主人公に出会えたこと、最高の幸運だと思います。
歌舞いていると思いきや自分が暴走しそうな時にはクールになれるように引いたりとクレバーなところもある漢。バカだけどバカじゃないんだよ!!
敵だったリオの涙にいち早く反応したり、彼にすぐさま背中を預けたりと、バーニッシュを憎むのではなく、ただ災害から誰かを助けたいという思いが根底にあるという印象。
バーニッシュの避難所で死にかけの女の子に対して、どうしてなんでと理不尽を吠えるよりも先に「自分はレスキュー隊員だ」と名乗りを上げたのに彼の職業意識を感じました。きっと恩人であるクレイさんに恥じない自分であるためにたくさん努力して勉強したのだろうな……なのにあの裏切りは酷すぎるよ……
それでもって理想の自分を振る舞う=歌舞くことで自分のブーストにしてるのめちゃくちゃかっこいいです。
髪型が全オタク(クソデカ主語だがあながち間違ってはいない)の兄貴ことカミナ兄貴に似てるのは意識したのかそれとも監督の癖なのでしょうか?

 

リオ
あんな華奢な体格なのに大股開きの余裕アピールしたりモンスターバイク乗り回したりしてたの??(初っ端からそれかよ)
バーニッシュアーマーのマスク部分がギザギザの歯っぽくなってるのカッコいいですよね。あれデザインしたのリオなのでしょうか。
彼のハイライトが赤と水色なのリオデガロン/ガロデリオンの伏線だと気がついたとき帰りの電車で変な声が出ました。
あの視聴者視点30分×2回、当人視点1分もたたない中でガロの美意識や武器の特徴も観察して覚えてたのってかなり根が真面目な証拠ですよね。そこからガロの歌舞伎観をしっかり汲み取ってリオデガロンの変形、武器創造してくれたりと非常に良い子だと思います。
バーニッシュのスローガンとして非殺を掲げていたり、行動理由が一貫して仲間たちを助けることであったりと非常に強い正義感と責任感の持ち主です。それでいて自分の強さにもプライドを持っている。街を襲うときは仲間たちを助けられなかった怒りもありますが、それよりも無力感で泣いてたのではないでしょうか……
終盤でクレイに捕まり、ガロに炎を向けられた時、あれきっと隙を突いて抵抗すれば逃げられたと思うんですよ。それでもリオはガロを守ろうとした。なんかもうそれだけでリオが初対面〜殴り合い〜共闘を通してガロに対してどれだけ信頼をしていたかということがわかります。
復興も全てが終わった後、マッドバーニッシュの幹部お二人とピザでも食べてのんびりして欲しいです。今まで戦い詰めだった分幸せになって欲しい。
そういうところでガロから伝染った美的センスを披露してしまうとかそんなイベント、あると思います。


アイナ
前半のヒロイン(ガロに対しての)であり後半のヒーロー(姉に対しての)
グレンラガンしかりキルラキルしかり、ヒロインはトロフィーでは決してないんですよね。しっかりと考え、自分の意思で淡い恋心を抱いている自立した女の子が大好きです。
研究所で働く天才である姉を誇りに思っていると言ってたけど、多分お姉ちゃんであるエリスにとってもアイナは誇りだったのでは。
バーニッシュを燃料として消費する研究をしていたエリスから見て、炎上テロから市民を守る仕事に就いている妹の存在はきっと何より眩しく見えただろうし、そんな妹に絶対死んでほしくないからワープの決行を受け入れてしまった。
作中で彼女視点で得られる情報量が多かったからこその悩みですよね。
プロメア2クール全25話アニメだったらきっともっと掘り下げられていただろうなと思うとちょっと勿体ないです。


クレイ
世界の支配!新世界の神!みたいな、「支配してその後どうするんだよ」的ツッコミの入るような悪役よりも、一本通った価値観と信念を持ち目的を成し遂げた後のことを考えてる悪役ってよっぽど素敵ですよね。まさしくそれです。
別惑星にワープが成功してもそこで生き延びられるかは人間次第ですし、別惑星での生活のための兵器を作っておくことに彼の自信と意志の強さを感じました。
平常の穏やかな声と激情時の荒れた声も相まって強い敵でした。冷静さと凶暴さ、両方併せ持っているからこそのラスボスです。
これは推測ですけど、学生時代にバーニッシュ覚醒して、自分が左腕を失った分だけバーニッシュを利用してやろうと思ったのではないでしょうか。だとしたら途轍もなく傲慢ですし、その傲慢な願いを叶えられるほどの強さを持っているということに畏敬すら覚えます。
最後に必殺技を受けて散るのではなく、ただの人間に殴られて沈み、生き延びてしまうの彼にとってはものすごく屈辱的ではあるでしょうし、その後どうなるかはわかりませんがいつか復讐を企んで欲しいです。つまり続編をくれ。

 


なんで!2時間しかないの???
絶対絶対2クール25話でバーニングレスキューがバーニッシュを憎んでいない理由とかバーニッシュボスと幹部の絆とか復興1年後のガロとリオのお出かけとか描かれて然るべき筈なのにおかしくないですか?
むしろ私だけが映画で総集編を見ていて、他の人たちアニメ2クール見たんじゃないの?ってわりと本気で思ってます。

 

 

インスタント沼 感想

インスタント沼 感想

 

Amazonプライムで視聴です。

 

編集長として担当した雑誌は心霊特集を組んで廃刊、好きな男は海外に行き、母親は河童を釣ろうとして意識不明。人生ジリ貧泥沼OLの沈丁花ハナメがひょんなことから自分の出生の秘密を知ってしまい、お金持ちかもと思って実の父親を訪ねたら骨董品屋さんでした。
電球さん(骨董屋主人)とガス(パンク青年)に囲まれてガベージコレクションして、で、なんだかんだで龍召喚したりする映画でした。なんだかんだはなんだかんだです。

 

そもそもインスタント沼という発想が天才のそれ。
沼を乾かして土砂にしたものを蔵に保存しておいて、その土砂を撒いて水をちょっと掛ければ沼の完成。カップラーメンみたいに一日でできる沼である。なるほど、インスタントだわ。

 

ネタは非常に面白い。
粉末スプーン十杯に対して牛乳ちょっとの、まさしく沼のような「しおしおミロ」を飲み干すの楽しすぎでしょ。
言葉遊びのようなハナメの自己紹介もコミカルだし、三秒に一回ギャグを挟んでくるハイテンションさ。ハナメの家の前を通る会社員がいちいちカナメの奇行(変なマスクを被って踊る、お金を舞い上げる)に反応したりと飽きない。

 

幼年のみぎわに沼に沈めてしまった招き猫の呪いのように人生上手くいかないハナメはなんとなしに自分の本当の父親の住所と思われる胡散臭い骨董屋を訪ねていくのだが、その骨董屋の商品がいちいち胡散臭い。
おでんの具の名称が一つずつ出てくる箱型ルーレットとか、ちくわぶとかはんぺんとか出た後に虞美人草にって……シュールすぎる。いや、おでんに入るのかもしれないけど?
ハナメが探す羽目になる"運命の人の顔を教えてくれるツタンカーメンの占いマシーン"なるものもまた胡散臭い。こういうチャチな占いマシーン何時頃から消えたんだろうね。

 

ストーリー終盤で復活した沼から龍が出てきて空に昇っていくシーンは頭の上にクエスチョンマーク浮かべる案件だったけど、それはそれでスッキリしたから問題なし。ハナメとガスはなんだかんだで上手くいくし、別れた男についても「まいっか」になるし。


映画全体を取り巻く胡散臭さとシュールさが「ま、こんな感じでいいかな」って奇妙に納得させてくれるんだよね。

 

結局、「思い切ってなんかやってみる」というのがこの映画のテーマなんじゃないかなと思ってみる。
「うまくいかない時は蛇口を捻ってみる」という電球さんの教えはきっとそういうことなんじゃないかと。
モゴモゴ引きこもっているよりは手洗い場の蛇口を捻ったままジュース買いに行ってみたり、風呂の蛇口を捻ったまま中華食べに行ったり。
行動で何かが変わるのだ。ということです。

 

ルパパト49

さて、ここで問題です。

明光院ゲイツは貯めた秋山蓮ポイントで城戸真司をファイナルベントしました、が、朝加圭一郎は朝加圭一郎ポイントを貯めて何をするでしょうか?

 

 

 

 

 

アンサーチェック!
A.魁利の救済

 

 

 

1話再現が嫌いなオタクという人種に未だ会ったことがないんですけど、1話は、というか1話5話6話10話25話30話34話37話……全ての朝加圭一郎と魁利の回はこの49話のためにあったのだと確信しました。香村純子ありがとう。その言葉しか言えない。

 

「圭ちゃんが俺に会いたいんじゃないかと思って」
圭ちゃんが自分を見つけられなくて最終的に座るだろう場所に白昼堂々居座る魁利くん。
自分が会いたかったことを表面だけ隠して、でも隠しきれていない。
不敵に笑おうとしてるのに泣きそうな顔が辛いです。舞台が真昼間なのに魁利くんだけずっと夜を歩いてる。
ルパレッドに妙な信頼を寄せられていることに気がついていて、それが魁利だとわかってしっくり来るの、そういうとこだよ朝加圭一郎!鈍感ではないのだ。
魁利の激昂に乗せられることもなく、友人の苦しみに気がつくことができなかった自分が不甲斐ないと自責を募らせる圭一郎に魁利は何も言えなくなってしまう。真っ直ぐ、魁利の目を見て泣く朝加圭一郎に対して、帽子で隠してしまう魁利。多分ここで魁利は自己満足のために叱られようとしていたのだと自覚したんじゃないかな……朝加圭一郎に会って、自分のことを真に思ってくれるからこその叱責を受けて、それでさよならをする決意を固めたかった。けど、責めてすらもらえなかった。

 

 

 


で、傷メイクの魁利くん。
悲壮な顔が似合いすぎる。無理……すき……香村レッドは怪我が似合う。魁利くんいつも怪我して胴体に包帯巻いている気がします。

そしてザミーゴを探し始める魁利と、それを追う朝加圭一郎。魁利の華麗なワイヤーアクションの筈なのにどうしても泥臭い。朝加圭一郎も泥臭い。途中で挿入される唸り声がどっちのものかわからなくなって、普通なら朝加圭一郎だなと思うのに、今回ばかりは魁利の濁点なのではと直感で理解した。
そして、いつも夜野魁利を見つけ出すのは朝加圭一郎なんですよね。怪我と疲労で今にも倒れそうな魁利を支える。
でもほらすぐ魁利くん目を逸らす〜!!!!
兄に仲間、圭ちゃんからの信頼を全て失ったと思っている魁利に「俺がいる」と言い切る度量の深さよ。
苦しんでいる人を助ける、という圭ちゃんが警察である理由を聞く魁利の顔が今世紀最大に心苦しいです。
一緒に戦うと言われて、警察まで自分のために辞めると言われて、以前の魁利じゃ絶対に朝加圭一郎の言葉を信じられなかったと思う。けど、この一年が魁利から朝加圭一郎への信頼を育んだことで胸にすとんと落ちるように受け入れることができた。
30話で、自分のことを肯定してくれる朝加圭一郎の言葉を素直に受け取れなかった魁利からは考えられないほどの成長。
でも、街の破壊音を聞いてどうしても朝加圭一郎は反応してしまう。根っからの市民優先思考。
そこに魁利は漸く朝加圭一郎や兄と自分は違うと理解したんじゃないかな。
朝加圭一郎は助けを待つ人々のヒーローで、自分は兄一人のためのヒーローであり、絶対的に違う。二人はもう一人にはなれない。
30話から(なんどもこの話してる)兄が自分より迷子の子供を優先したこと、朝加圭一郎が自分との決着より無辜の市民の救助を優先したことにもやもやとしたものを抱え込んできた魁利ですが、最後の最後で守ってもらいたい側から自分の大切なものは自分で守る大人になれた。
魁利の年齢が作中で19歳から20歳になるのいいよね……
町を見る圭一郎の背中で、幸せそうに笑う魁利が儚すぎる。
朝加圭一郎が朝加圭一郎であるだけで視聴者は嬉しくなっちゃうけど、魁利もきっと同じなんだよ。警察であることというある意味朝加圭一郎が朝加圭一郎であることを捻じ曲げてまで一緒に戦ってくれる朝加圭一郎が、無辜の市民を優先するという朝加圭一郎をしている。それだけで魁利は嬉しくなってしまうんだよ。
自分の好きな人はこんなにも素敵なんだっていう誇らしい気持ちが伝わってくるしちょっと泣いた。
だから背中を押して、熱血おまわりさんと言う。朝加圭一郎は自分だけの「圭ちゃん」ではなく、みんなの「おまわりさん」だから。


ここまで書いて、やっぱりルパパトは魁利の物語なんだと実感しました。
魁利視点で進んでいくから、魁利にとってのヒーロー、憧れ、大好きな人である朝加圭一郎のこの上ない善性がより強く輝いて見える。
夜明け前がいつも暗くて、だから朝日が輝くのだ。