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なんかの感想

新世界より 感想

新世界より 感想っていうか考えたことの記録。
アマプラで全話配信されてたので見てきました。
スクィーラが好きです。

 

 


⒈「想像力こそが全てを変える」という文言について


全てのディストピア小説は電気羊ならびに1984年の影響を受けている。というのが持論なんですけど、電気羊において人間の証明とされているのが共感力です。
こう語り始めると共感力=想像力と認識していると思われそうですが、想像力の中でも呪力に及ぼすための現実に認識する想像力と自分と違う立場、つまり早季たちがスクィーラの戦術を先読みしたようなものを推測力、相手がどう考えているかを類推する力を共感力と分類する。

今語りたいのは推測力と共感力について。

 

まず推測力。
早季が富子様に評価されてるのは、葦のように立ち上がる折れなさに加え、街のために何が最善か、自分の行動によって何が起こるかを論理によって組み立てられる推測力だと思う。
早季はまだ未熟で、悪鬼のトリックについても「何かがおかしい」という直感から組み立てていってるけど、それは早季の頭の中で無意識的に組み立てられたものが次第に浮かび上がっていくようなものじゃないか。
その思考力を支えるのが"現状に疑問を持てる"か否かということ。
スクィーラにとってはバケネズミは人間または女王に従うものという認識、早季だと子供がいなくなるという街の仕組み。これら一見完璧に構築されていると考えられるシステムへの穴を見つける、ある意味悪意とも言える力。
早季とスクィーラはこの力が非常に高く、何をしたら自分たちが身を守れるか/何をしたらより街に被害を与えられるかの想像が頭の中で既にできあがっていて、それを実行できる力がある。
つまりこの物語の対比構造である早季の直感とスクィーラの悪意は、コインの裏表のように見えて実は同じものである。ということ。

 

 

次に共感力について、これについては早季やスクィーラたちのような文面上のものではなく、我々読者が持ち得るものである。


愧死機構というのはおそらく「自分と同型の個体が苦しんでいる様子を見て自分の身にも苦しみが起こるかのように錯覚する機構」であると読み解いたんだけど、これはまさしく共感である。シンパシーとエンパシーの違いは実感が伴うかどうかであるけど、愧死機構は共感から実感を組み立てている。逆エンパシーである。
逆にバケネズミは、大義と集団心理というスキンでこの共感を覆っているから、自分と同型の個体が苦しんでいても痛みではなく怒りがまず来るのかもしれない。

 

話を戻して、読者の共感とは何か。
読者の共感とは結局は実感を伴わない感情移入である。だからこそ地の文があるわけだけど、『新世界より』では早季たち「完成された人間」か、スクィーラたち「人間の末路」、どちらに共感するかではなく、どちらにも共感できるように作られている。
ガワが人間である早季たちに感情移入するのは容易い。語り手も早季であるし、外見的にも読者と同じである。
また、スクィーラたちに感情移入するのも同様。早季たちが全人学級で街の外への恐怖を刷り込まれたように、私たち読者は小学校から社会の教科書なりで奴隷制度、徴兵制度を学ぶことで一方的な権力に服従することへの本質的な恐怖を刷り込まれている。もし自分も超能力者に支配され、バケネズミに貶められたらどうしようという恐怖がバケネズミに共感させる。


では早季たちは私たち読者視点においた悪であるのか?となるが、これも違う。
早季たちは基本的には善人である。これは不文律。神栖66番町は善人の町であり、悪意を持って何かしらをしようとする人は描写されている限り一切いない。貶めるという発想がそもそもないように作られている。
瞬も語っていたように、そのような無意識的な悪意は全て呪力が介する恐れがあるから外に向けられるのだ。

自分たち人間の範囲内において互いを傷つけることをせず、慈しみ合う善人である彼らを悪としてみることはできない。
バケネズミへの共感がもしかしたら起こりうるかもしれない支配への負の共感ならば、人間への共感は誰もが持つべき善性への共感といえるのかもしれない。

 

まとめると、
①早季たち人間への共感
②スクィーラたち人間への共感
③早希たち新種族への共感
の三段階を追って、『新世界より』へのメタ的共感=彼らの心情の想像が成立するのだろう。

 

以上、「想像力こそが全てを変える」における「想像力」というのは人間たちの持つ呪力、早季とスクィーラの持つ完璧なものへの悪意とも言える思考力、そして読者の感情移入のトリプルミーニングであるのではないか、ということ。

 

 

 

⒉スクィーラについて

 

かれの最後の叫びについてはもう誰もが考えたことだろうし、私はそれ以上を考えられないから省略。

ここではかれの主義と正義ではなく、かれの持つ負の感情について考える。

 

5話〜7話において、早季たちが仲間と合流した時がその時期内で一番彼の憎しみが膨れ上がった瞬間のように思えてならない。


思うに、かれの原動力は劣等感ではなく不公平感なのではないだろうか。
"呪力がないだけ"でなぜ自分たちバケネズミは社会性を持つという共通項を持つはずの人間に隷属しなければならないのかという疑問から始まり、それから現在の人間社会の支配的構造に気がつくのはかれにとって易しいことであるだろう。
自分たちバケネズミは情報統制に頼らずとも全員が群として社会の構築が可能だと知っているから不公平感が溜まるのだろうと。
かれからして見れば、早季たちは呪力を持つ代わりに「自ら無能でいること、価値判断基準を外部に委託することを選びとった愚か者」に思えたのかもしれない。
そんな相手にたとえ子供であるとしても媚びへつらわなければならないこと、見窄らしいと見なされることが許せなかったのではないかと思う。

それと同時に、再会時点ではスクィーラは少なくとも早季は呪力を使えないと悟っている。それを早めに確信を持てなかった自分への愚かさへの反省もありそう。


まとめると、早希たちの再会シーンでのスクィーラの心情は
①呪力をもつというだけで子供にすら馬鹿にされる身への不公平感
②もう少し早季たちを注視していればもっと有益な別の手が打てたという自信と自己嫌悪
そして、もしもあったら地獄だなと思うのが
③早季(=社会的強者)に「協力者」として見なされたことへの少しの嬉しさ


③をもしスクィーラが少しでも感じていたとしたら、早季たちが去ったあとにとてつもなくスクィーラは屈辱を感じると思う。

自分が憎むべき相手に認められることに安心してしまった。自分がこの世界における強者に従うことで幸福を得てしまった。

これは結局バケネズミのいる奴隷立場への恭順であり、かれにとってはとてつもなく認めたくない感情なのだろう。

 

 


⒊真理亜守ロボトミ問題

 

二人はスクィーラたちに捕まった後、ロボトミられて生産ラインになったが衰弱して死亡。という説を前提にしている。

つまり出産→捕虜ではなく捕虜→出産。

 

さて、真理亜と守のどっちが先に手術を受けたかについてだが、二人同時なんて失敗のリスクが高いことはスクィーラはしないだろう。かれが直接手術の監督をしているとすれば、日を開けて順番にするのが一番効率的だと考えるのが妥当。

描写されていない以上推測するしかできはいが、個人的には真理亜のほうが先にロボトミられた方がありえそうかなと。
一途に想いを寄せられてきた守に対して、真理亜はずっと憧れでいたかったのではないかと。だから出産個体である真理亜の前に守でリハーサルしとこ^^ってなるところを庇ったのだろう。

そもそも真理亜にとって何が一番嫌かって、自分自身が守を害してしまうことだと考えられる。自分だけは守の側にいて、街からも外敵からも守護者であることを自分に課していた真理亜が守を庇わない訳がないだろうし、バケネズミ側としても臆病な守よりも勇敢で意志の強い真理亜の方から無力化しておきたいと考えるだろう。
数時間後、本能のみで動くようなまさしく繁殖用の個体となった真理亜が。
守は自分の絶対的な守護者であった真理亜がいかに非人道的な手術をされたのかをきっとその思慮深さで悟ると思います。臆病というのは悪い出来事への想像力があることだとも言い換えられるし。

真理亜がロボトミられた後、守だけロボトミ失敗して正気を保って(保ってない)いたらそれはそれで彼も地獄だなと。
人一倍臆病で未熟な彼が敵地で孕み袋と成り果てた姉的存在とまったくストレスの緩和されないボノボこういを強要され、ひっそりと雪が消えるように死んでいく。詩的だ。姉への尊敬と一途な恋心、そして姉と秘密を共有していた友人たちへのほのかな嫉妬心を煮詰めた少年の絶望。

 


だいたいこんなことを考えながら見てました。

 

また、スクィーラ裁判の後に「悪意を他人に向ける」高揚が忘れられず、また「他人を同型と思わない」という愧死機構の抜け穴に気がついた人が悪鬼化するという後日談とかありそうだ。
朝比奈瞬くん❤️生き残って❤️